2011年3月31日木曜日

3/30(水)第2次支援チームレポート(釜石)ユウさんより

一昨日は、夜間に死ぬほど寒い思いをしたのですが、昨日見たら、なんと窓が壊れて開いてました。夜の気温は氷点下だったので、そりゃあ寒いわけです。
今朝の気温は10℃を超えており、わりと暖かく感じました。

仙台のガソリンスタンドには相変わらず130台以上並んでいて渋滞になっています。
朝7時半に倉庫に向かい、倉庫で積み下ろしをしました。

そこから、タケゾウとヤジマさんは横浜への帰路につきました。
ヤジマさんは本当に長い距離を運転してくださり、タケゾウも私たちの作業を黙々と手伝ってくれていました。この2人のしてくれた働きは私たちにとって大きなものでした。
感謝して別れた私たちは岩手の釜石に向かいました。

釜石に到着して牧師先生と協力し、釜石の津波被害にあった商店街の解体・掃除作業をジュンくん、ケンちゃん、アキラ、シンくんが行い、サムエルくん、ユウ、ウメムラさんは北上して市外をまわりました。

解体・掃除作業はいつ2階が崩れて来てもおかしくない状態のお店で行いました。帽子しか用意がなかった私たちは、崩れて来た時のことを考えるとヘルメットの必要性を感じました。
釜石の牧師先生は良いことがあったようで、昨日より今日の方が元気そうでした。
私たちが昨日と今日では街の様子が少し良くなり、綺麗になりましたね、と話すと、「そうでしょ。最初はもうすごかったんですよ。」と言って、とても嬉しそうにしていました。

市外をまわるグループが出発前に昨日の民家を訪れ、今夜泊まるための荷物を降ろしていると、家主の方が貸家のドアが津波の影響で開かなくなったというので、バールを使ってこじ開け中に入りました。
何を見ても動揺しない覚悟をして来たつもりでしたが、津波が来てからまだ誰も入っていない部屋に入るというのは怖いものがありました。
部屋の中は荒れていましたが、人の姿は見られず、とりあえず安心しました。

その後、北上して大槌町に行った私たちは被害を免れたわずかな人々のところに行き、物資の必要を聞きました。
現在は民家では避難所を通して公平に物資の供給がされており、必要としているものは間に合っているとの事だったので、私たちの物資も公平に分配されるように釜石の倉庫に預けることにしました。その倉庫では、働いている人たちから現在の物資の状況を聞くことができ、米類、麺類は足りているがオカズがそれに比べて足りていないという事でした。

今晩から釜石市に泊まることになります。宿泊地は電気・ガス・水道が通っていない地域です。
トイレが使えないので、夜はみんなで少し歩いたところまで行きました。
途中で全員の灯りを消すと、あたりはまっくらで、星がとても多く、綺麗に見ることができました。

今日の献立は、朝は料理人 アキラ&ジュンによる、
おにぎり味噌汁、昼はパーキングでのカツ丼!!!!など
夜は、朝に作りためておいたおにぎりと豚汁、缶詰。そして今日は、リーダー サムエルくんの誕生日!なので、サムエルくんの誕生日プレゼントの牛タンをみんなで食べました。

夜は地震が何度かあり、今までより緊張感があります。
明日も2グループに分かれて行動します。
頑張るぞ~!
けっぱれ岩手!

2011年3月30日水曜日

第2次支援チーム メンバーより

被災の現場に入った第2次のメンバーからの声をお届けします。

ジュンさん

釜石は聞いた話と想像で、覚悟はしていたけど、それ以上に凄まじく、復興というのも考えづらい状態だった。
しかし、掃除しながら現地の人とのコミュニケーションをとっていくなかで、希望を持ってやっているのをみて、どんなきたない中でもイエス様を見ることができて、どこまで仕えられるかと考えさせられた。
あんな状況の中でもやるしかないと思わされた。
終わったあとは、大変だったけど、力になれて良かった。

タケゾウさん

テレビでみるよりも実際の方がすごく、ずっと掃除していたけれど、掃除だけでなく話し相手になることも大事だなと思った。

ケンジさん

掃除はかなり精神的にきつかった。
街が原型をとどめてなく。
掃除での葛藤のなか、被災した方の現状を聞き、自分にへこんでます。
神様に聞いて行きたい。

アキラさん

まだ、被災地に来てタイムラグがあり、なんとも思えない。
ひどいなぁと思っているが、自分の家が東京にあり、被災者とは同じではない。
自分にできることはパーソナルな話をすることではなく、掃除という行為を通してコミュニケーションを取ることだと思った。
掃除に行った家では、旦那さんを亡くした話などを聞き、無理をしてるなぁと感じた。
一見ゴミに見えるものでも本人の意思を聞き、その判断を大事にするように気を付けた。
印鑑を探していて、見つけられたのは小さな事かもしれないが良かったのではないか。
情報の正確さが重要。
道具の管理、水の確保なども考えなければいけない。
リーダーとの連絡を密にして行く必要を感じた。

シンさん

宮古市の田老町に行き、向こうの方の話を聞くことに集中出来た。
思考が停止するようなショックを受けた。
情報をあまり得ないでこっちに来たので、現状を見て衝撃が大きかった。
掃除ではなく、物資の配布に行ったが意味があったかなと思う。
大きな災害に対して自分たちにできることはほとんど無いが、小さなことでもある人にとっては大きな事であるのかもしれないと感じた。
自分の能力をみて、役に立てなきゃマズイなと思うこともあったが、自分が何をしに来たのか思いだし、チームとして出来ることをして行きたい。

サムエルさん

街が丸ごとなくなってるような、こんな状況で出来る事なんてないと思うが、全体で見たら大したことがなくても、一つ一つの家族には大きな助けだったりするのかもしれない。
街全体を救おうというのではなく、目の前にあることを全力でやって行きたい。
全てのことをイエス様に行うように仕えて行きたい。
阪神淡路大震災と比べたりしている報道もあるが、全く違うと感じた。
被害は民家が多く、性質が違う。復興には何年もかかるのではないか。

ユウさん

自分の見ている現状と自分の存在が別次元にあるように感じた。
被害は実際に見ているけど、心がついて来ていない。
実際に被害にあっている人にも配慮出来なかった。
というのも、外見的にはボランティアの方と変わらず、笑顔で接してくれるから。
しかし、話してみると旦那さんを亡くした事などを涙を流しながら話していて、内面は自分たちとかなり違うことに気づいた。

ウメムラさん
個人的に初めて被災地を見た。
明日から津波被害があった場所に泊まるので、正直怖さもある。
コミュニケーションを通して1人から人間関係が広がって行くのを体験した。

ヤジマさん

来て良かった。
学べたことが多い。
人の育成ということに尽きる。
今日みたいな経験は、必ずみんなの糧になると思う。
被災した方には申し訳なく思っている。しかし、このリアルな体験がみんなを成長させるのではないか。
みんなには将来的にボランティアのリーダーになってもらいたい。

3/29(火)第2次支援チームレポート(釜石・宮古2)サムエルさん、ユウさんより

 宮古市に物資を運んだチームは、まず、託された個人あての物資を届けました。
そのお宅では、地震当日にご主人が1階でストーブにあたっていたとき、突然津波が壁を突き破って押し寄せてきたとのことでした。
そのまま津波に流され、身動きが取れなくなったご主人は、水を何度か飲み込んでしまい、もうだめだと思ったときに波が引いたのでなんとか助かったということでした。
まさか、堤防がある環境での突然の津波は想定外だったと仰っていました。

その後、海沿いを通り、スーパー堤防のあった田老町へと向かいました。
そこでは、街がまるごと泥で埋まっているという惨劇を目の当たりにし、言葉を失いました。
市役所で、残っている民家の状況などについて伺い、それらの家に対する救援物資の必要性を確認しました。
時間が遅くなっていたので、今日は物資の配布はせず、状況の把握のみで釜石に戻ることにしました。

釜石で、掃除を終えたメンバーと合流し、大船渡市、陸前高田市経由で今日の宿泊場所である仙台へと向かいました。
掃除をした民家の方のご好意で、その掃除した建物の三階部分を貸していただけることになり、明日からは釜石を拠点として活動できるようになる予定です。
電気、ガス、水道は恐らく使えなくなるので、近況も報告出来なくなる可能性があります。
向こうは、信号も動いておらず(ほとんど壊れている)、夜はまっくらで治安もあまり良くないという事です。

ちなみに、関係ないのですが、帰り道では鹿を3匹ほど見かけました♪

山道からみえる、大船渡のあたりは、明かりが少なく自然のままの綺麗な空の色が見れました。
しかし、震災前はその辺りにも家がたくさんあったと思うと複雑な気持ちがします。

陸前高田市に入ると道が見えなくなり、街灯もなくなり、街が見えないほどの暗さでした。
道も津波に飲み込まれているようで、橋も掛け直したように見えました。
たまに車のライトで見える場所は家の土台や、流されてきた家があったり、ナビで病院と表示されているところも何もないような状態です。
道路の両側にはバスの高さをゆうに超える高さの土砂が積み上がっていて、廃墟のようになっていました。
とりあえず、移動はクルマのライトだけが頼りな状態です。

ちなみに、本日の献立は朝御飯はパン、昼はカロリーメイトとパン、夜はウィダーインゼリーとパンでした。パンさまさまですが、もうすぐ持ってきたものもなくなります…。
ちなみに、パンが無くなっても”二分でご飯”(いわゆるサトウのごはん)や”カップ麺”などがあるので、争いは今のところ起きていません!!!!
リーダーのサムエルくんは既に口内炎で、野菜不足が懸念されています。

3/29(火)第2次支援チームレポート(釜石・宮古1)サムエルさん、ユウさんより

本日は、朝5時に起きて津波被害の大きい岩手県釜石市へと向かいました。
物資を大量に積んでいる関係で、バス車内は暖房がつけられなかったので、足元は非常に冷たかったです。

釜石には第1次のチームが行ったときにコンタクトをとった教会があり、私たちは前のチームの働きを引き継ぎ、またそこからその働きを広げていくために向かいました。釜石市では、地元の教会を通して地域の方々に仕えていくつもりです。

仙台から釜石市までが片道3~4時間、釜石市から宮古市までが片道2時間くらいの移動でした。
運転はウメムラさんとヤジマさんが交代しながらしてくれています。
釜石市内では、今までよりもさらに多くの自衛隊車輌や緊急車輌が走っていました。
サイレンの音もチラホラと聞こえるようになり、ガソリンスタンドも災害対応車輌専用と貼り紙がしてありました。

はじめのうちは、街はまだ普通と変わらないような感じでしたが、そこから、津波の来たところにはいると景色は一変し、道路には両側一杯に瓦礫、一階部分はねこそぎだるま落としのごとく流され、二階が落ちて来ている家があったり、とにかくすごい状態でした。

高いところにある突起部分に動物(キツネ)が引っかかっていたり、チョウザメが流れ着いていたり、あり得ないことだらけです。到着後バスを降りると、市街地であるにもかかわらず海水の混じった泥のような匂いが街中に立ち込めていました。

現地の教会に到着後、牧師先生から掃除してもらいたい民家があるということを伺い、すぐにその民家へと向かいました。
その民家は、二階まで津波が来ていて一階はへどろや家具、ビンなどが30cm~50cmくらい積もり、壁には穴が空き、違うところから流されてきたものも多くありました。

そこで私たちは、民家を掃除をする5人のグループと岩手県宮古市に救援物資を運ぶ4人のグループとに分かれることにしました。
民家の掃除の作業は、ジュンくん、アキラさん、タケゾウ、ユウ、ケンジで行い、11時くらいから16時くらいまでの5時間作業し、1階部分の泥やゴミを片付けることが出来ました。

地震の影響もあり、家具などが倒壊していたり、大事な物が泥に埋まってしまっていたりと、作業はなかなか思い通りにいきませんでした。しかし、見つけて欲しいと頼まれていた印鑑などを見つけることができ、最終的には喜んでもらうことが出来ました。

作業の中でその家の方と話していると、二階まで押し寄せてきた津波により旦那さんが亡くなられたということを伺いました。
作業の後、民家の前には瓦礫や泥の山が出来ていました。
ちなみにこの作業中、数人は途中でダウンしてしまい、教会で一時間ほど休ませてもらっていました。

2011年3月29日火曜日

東日本大震災 義援金

お寄せいただいている義援金ですが、第一回目として、「朝日新聞 厚生文化事業団 東日本大震災 救援募金」に送金いたしました。
今回の金額は、146,081円です。

ご協力に感謝するとともに、引き続きよろしくお願いいたします。

3/28(月)第2次支援チームレポート(仙台初日)サムエルさんより

さむえるです。

第1次から引き継いで、今朝7時半に教会を出発しました。
たくさんの支援物資を頂いたので、バスが後ろに傾くほどでした。
高速道路では目立った渋滞なく、災害支援のバスもちらほらと見受けられました。

パーキングエリアで休憩しながら順調に進み、安達太良で運転を手伝っていただいたエディスさんと別れました。エディスさん、パーキングエリアから歩いて帰って行きました。私たちの想像を超えたたくましい方だと感じました。
「エディスさんありがと~!!」
エディスさんと別れた後、ウメムラさんが運転を引き継いでくれることになりました。
そこからは、だんだんと道路に荒れた箇所、直した箇所が現れるようになり、バスも大きく揺れました。

午後3時前に仙台市に到着。
高速道路ではあまり並んでいなかったガソリンスタンドでも、仙台市内では1箇所100台くらいの長蛇の列(1kmくらい)が見られるようになり、被災地の物資・燃料不足を感じました。
仙台到着後、日本国際飢餓対策機構(JIFH)の倉庫に救援物資を降ろし、現地のボランティアの方から具体的な状況を伺いました。
倉庫の状況は、ある程度の物資は揃っているものの必要の大きさに比べて十分とは言えない印象を受けました。
ボランティアの方々は、外国の方や様々な地方からも来ているようでした。

私たちのチームは、先週の第1次チームの働きを引き継ぐために、翌日岩手に行って欲しいとのことで、救援物資を降ろし終えた後、岩手に持っていく物資の積込みを行いました。
岩手への物資の積み込みと同時に、急遽1時間半後までに宮城県立こども病院に不足しているオムツ、粉ミルク、母乳パッド、ベビーフードなどの物資を届けて欲しいとの要望があり、もう一台のヤジマ幼稚園バスにそれらの物を積込み、すぐに出かけました。

病院に到着すると、医師や関係者の方が10名ほど出てきて下さり、届けられた物資を見て非常に喜んでくださいました。医師の方曰く、必要なものは現地では買うことが出来ないということでほとんど送られてくる救援物資が頼りとのことでした。
しかし、一部の母乳パッドやおしりふきなどは救援物資などにもあまり数がなく入手が困難な状態が続いているようでした。

 その後、出発前に託された個人の物資を民家に届けました。
仙台市内の民家の周辺では、至る所に陥没した場所や道路の地割れがあり、自動販売機もほとんど売り切れという状況が続いているようです。


そこまでの作業を終えて、本日の宿泊先の教会へと向かいました。
到着して夕ごはんを食べる頃には23時を過ぎていました。
みんなヘトヘトでしたが、文句も言うこともなく最後まで頑張ってくれました。
ちなみに本日の食事メニューは昼がおにぎり、夜はカップラーメン&おにぎりでした。


おにぎりを作ってくれた教会の方には誠に感謝してます!!!

明日は朝5時に起きて岩手に出発します。
引き続きお祈り下さい。
ガンバルぞ~!!

2011年3月28日月曜日

3/28(月)第2次支援チーム出発

第2次支援チームが、今日の朝7時30分に横浜を出発しました。

メンバーは、サムエルさん(リーダー)、ヤジマさん、ウメムラさん、ジュンさん、シンさん、ケンジさん、アキラさん、ユウさん、タケゾウさんです。












前回の黄色いマイクロバスに再び、皆さんが提供してくださった救援物資を満載して仙台へと向かいます。今回は、ヤジマ幼稚園で集められた山積みの救援物資をもう一台のバスに載せて、2台で現地に届けます。












そして、午後3時ごろ、無事に現地に到着との連絡を受けました!

3/25(金) を振り返って5 第1次支援チーム (帰途。そして感謝。)ケイシさんより

しかし、幹線道路に出る道が大渋滞。さらに幹線道路もノロノロ運転。この時点で今日中の帰宅を諦める。数時間後やっとの思いで東北道にのったが、ここからは雪と無くなっていく軽油と眠気との闘い。行きは仙台まで約6時間かかったが、仙台通過が午後の10時。単純計算で朝4時到着予定。

しかし雪はどんどん激しくなり、そして、気がついたら軽油はあと一目盛り。栃木に入ってもまだ開いているスタンドはない。次のサービスエリアのスタンドが開いてなければ、エンジンを切って開くまで待たなければいけない状態。祈りつつ入っていくと整理員が立っている。開いているようだ。しかも緊急車輌である事を告げると1番前にしてくれた。こんなところにも神様のあたたかい配慮を感じる。

感謝しつつ100台近い給油待ちの車を追い抜いていく。これでなんとか早朝の祈祷会には間に合いそうだ。実は、早朝祈祷会のメッセージ当番のサトケンに連絡し、メッセージの代わりにメンバーの証しをさせてもらうことにしていたのだ。これでサトケンにも迷惑をかけずにすんだ。行ってみたら、代わってもらったはずの人が来てなかったではシャレにならない。

そうして、無事に明方5時に本郷台キリスト教会ダイヤモンドチャペルに到着。たくさんの事を見させられ、考えさせられた今回の災害支援の旅となりました。
祈り支えてくださった方、物資を集めてくださった方、事務局として支えてくれた仲間、途中まで運転を買って出てくださった方、チームのために献金してくれた方、個人的に栄養ドリンクをくれた方、みんなの支えがあって、走行距離2000kmを越える今回の旅を無事に全うすることができました。感謝します。これからも東北地方の被災者の方々を覚えて支援をよろしくお願いいたします。

3/25(金) を振り返って4 第1次支援チーム(釜石市)ケイシさんより

山田町から三陸道を使い一路、釜石市へ。そこで新生釜石教会の柳谷先生にお会いする。教会堂と牧師館の一階部分は津波の被害のためドロだらけに。ただ前日にクラッシュジャパンというキリスト教系の支援団体のボランティアが来て、片付けていってくれたようで、ドロや物は道端に山と積み上げられていた。

先生ご自身も避難所生活だが、日中は教会の前で焚き火をたき、来られる人々のカウンセリングや物資の配給をしておられるようだ。先生としばしお話しさせていただいた。

物資も必要だが、物ではなく人との繋がりが大切と仰っていた。確かに一時的な支援では決して立て直すことのできない被害だし、何よりも立ち直るためには人からの励ましが必要だ。私たちは、一人ではないという意識を一人一人が持つことができなければ、本当の意味で立ち直ることはできないと思う。継続した支援、実際に足を運んでこそ伝わるメッセージが確かにある。柳谷先生から大切なことを学ばせていただいた。

また先生は、生き延びた人達が、生き延びるというステージから次に進むべき時も来ているといわれた。たとえば毎日、瓦礫と化した光景を見ている避難所の人達が、人間らしい生活を味わうために花巻辺りまで出て温泉旅行に連れていってもらいたいとか、ちょっとしたビタミンドリンクを飲みたいとかラーメンを食べたいとかだ。確かに言われる通りだと思う。なんとかしていきたいと思う。

教会に残りの物資を降ろし、先生の依頼で近くの小学校へテントを取りにいく。これを教会の前のスペースに張って、居心地のいい空間を作りたいそうだ。そういえば、ここには震災後1人の青年が北海道から来て、ボランティアとして住みこんで先生の働きを助けているそうだ。私たちはあちこち回っているが、彼のように一ヶ所に留まって働くボランティアも必要だと感じる。

そんなこんなしているうちに、時刻は夕方6時に。予定では遅くとも午後1時に釜石を出て帰路につかないと山道で雪が降る可能性が。。ノーマルタイヤの私たちのマイクロバスではかなり厳しい。
柳谷先生に別れを告げ、急ぎ横浜に向けて出発。

3/25(金) を振り返って3 第1次支援チーム(山田町 町役場)ケイシさんより

山田町に行き、町役場に足を運ぶ。まだあちこちで自衛隊が瓦礫の撤去作業をしている。役場近くは気仙沼の時と同じように一面焼け焦げて赤茶けている。

ちょうど配給の時だったようで、500人程の人が水や食料をもらうために並んでいる。小さい子やお年寄りも列に加わって並んでいる姿に心痛む。少し立場が違えば、自分も同じ立場であることを覚え、今の自分にできることを精一杯させていただきたいと思う。

役場の人と話し、支援物資の幾らかを倉庫に納める。役場の下まで被害があった感じなので、当時の状況を尋ねると、波ではなく波に押された家が次々と迫ってきたという。

そして漏電から火災。当時は道が全く寸断され、消防車など来れるはずもなく、燃えるにまかせるまま。津波の被害を免れた多くの人が火災で亡くなられたという。また助かった人も高台から自分の家が燃えていくのを、ただ眺めるしかできなかったという。こんな情景が東北地方の数百キロに渡って起きたと考えると、改めて津波の威力の凄まじさに背筋が寒くなる思いがした。被災者の心の快復にはどれだけの時間がかかることだろう。自分はそのために何をすることができるのだろう。

3/25(金) を振り返って2 第1次支援チーム(民家)ケイシさんより

山田町に向かう道を間違え、リアス式海岸に沿う海岸線をしばらく走る。全壊した町の端に、数軒残っている家を発見し、もしやと思いトシヤとシミズくんに走ってもらう。

案の定、老夫婦が電気、ガス、水道、食料もなく暮らしていた。すぐ前の道を何度も行政の車が通っていったが、どの車も止まらない。すぐにメンバー全員で水やお米を持っていくが、コンロを持ち合わせていない。仕方なくお菓子や缶詰めなどすぐに食べられる物を持っていくが、心が痛む。直接話をしたトシヤは、もっと心が痛んだに違いない。その内に彼の視点からも書いてもらおう。

このまま一般道で山田町に向かうと日が暮れてしまうので、道を引き返し国道45号線で向かう。

3/25(金) を振り返って1 第1次支援チーム(宮古市)ケイシさんより

5日目は一番ハードな日となった。朝6時に出発して、まずは倉庫で積み込み作業。必要と思われる物資を積み込み、岩手県宮古市に向けて出発。前日にセイケさんから宮古市と釜石市の被害状況と必要な支援を調査してきて欲しいとの依頼を受けた。
快く依頼を受けてから宮古市がどこにあるかを知る。かなりの距離があり、午後からは岩手県に雪の予報。一瞬怯むが、一度引き受けた事なので、しっかりと調査してこよう。

まずは東北自動車道で花巻ICまで上り一般道で宮古市に抜ける。途中まだ雪が残っている山を登っていく。しかし、車道には雪が残ってはなく天候も晴れているので感謝。これが一日もってくれればと願う。一般道はさすがに時間がかかる。

予定時刻を大幅に遅れて宮古市に到着。宮古コミュニティーチャーチに寄って岩塚先生から状況を伺う。先生自身も地震後から避難所をまわり、被災者のお話を聞く活動を続けておられ、殆ど寝れていないとのこと。教会自体も被災者のためにオープンにしていてフル回転している状態だった。被災地の牧師先生たちのために祈らされる。

先生に伺った話。
あるお店を営んでいた被災者の方が、気力をなくし、避難所に身を寄せていたところ、地元のサッカーチームの選手たちがきて、店の掃除をしてくれたところ、その日からやる気を取り戻すことができたとのこと。自分に与えられている何かを他人のために使うとき、その人の生きる力となり得ることを思う。大切なのは、いつ、誰に使うかだ。相手の必要としている時に、自分を犠牲にして仕えることができるようになりたい。改めてその様に思わされた。

その後、宮古山口病院を訪問し、婦長さんに物資をお届けする。この時点で予定を2時間もオーバー。しかし岩塚先生から宮古市の南北の町々には、まだ物資が足りていないところがあるとのことで、南の山田町に向かう。




2011年3月25日金曜日

第1次支援チーム 帰路へ

第1次支援チームは、今日が現地での最終日となりました。
盛岡経由で宮古の病院に物資を運び、その後、宮古の2つの教会を訪問。釜石に下り、3つの教会を訪問。さらに大船渡にくだり、山越えをして奥州ICで東北道から帰途につきます。
土曜日の明け方に横浜帰着予定です。
雪道でもあり、最後まで一行が守られますようにお祈りください。

3/24(木)第1次支援チームレポート(東松島)ケイシさんより

4日目は、東松島にて一日、床上浸水したお宅の掃除。断水して水のない中でのヘドロを取り除く作業は、思った以上に大変だ。地元の高校生ボランティア達と一生懸命ドロと格闘した。

お昼は貴重な食材を使ってのカレーライスをご馳走になる。遠慮したが是非にと言うので、お言葉に甘えることに。自分たちにとっても、久しぶりの調理した温かいご飯は、とても美味しかった。温かい心遣いに感謝。一日も早い快復を祈らされる。

3/24(木)第1次支援チームレポート(支援について)ケイシさんより


今回、災害支援に来てみて分かったことは、支援には段階があるという事。被害の規模にもよると思うが、初めの二週間はとにかく支援物資の配布、しかもキメの細かい配布が必要だ。表通りは配られていても、通りを一本入ったところや路地の突き当たりにお年寄りが1人で住んでいたりする。

また小さいお子さん連れの家族もミルクやおしり拭き、オムツなど必要だ。オムツもサイズをしっかり揃えて持って行かないと対応できない。今回、全国から送られてきた支援物資の中にはアレルギー除去食もあった。
家が流された人達からリクエストが多かったのは、スニーカーや長靴。誰もが思いつく毛布や上に着るものは案外早く集まり届けられていたようだ。しかし、しばらく避難生活が続くと下着類や歯ブラシ、石鹸などの生活用品も喜ばれる。被害の規模、状況、期間によって必要な物は刻一刻と変化する。

ある街では、震災直後に略奪なども行なわれ、今でも夜は危なくて歩けないらしい。すでにもの取りの殺人もあると聞く。ガソリンの抜き取り、ナイフで脅して食べ物を奪う人もいるらしい。物資の補給と配給だけでなく、早くのライフラインの復旧が求められる。

2011年3月24日木曜日

3/23(水)第1次支援チームレポート(女川その2)ケイシさんより

その後リアス式海岸の山を登っては避難所に物資を配り、海岸線に下りては瓦礫と化した街をくぐり抜けるの連続。四階建てのビルが土台から倒れていたり、大きな船が行く手を遮り自衛隊もやむなく道のない所に迂回路を作る有り様。
女川に着くまでに6、7ヶ所の避難所をまわり物資を届ける。トーマスが状況と必要を聞き何を何個降ろすかテキパキと指示を出してくれる。それに応えてトシヤ、コウタロウ、コウキ、シミズアキヒロくん、シンヤともに良く動いてくれる。ノムラツヨシくんも写真を撮りながら良く動いてくれる。感謝。

それにしても避難所毎にニーズが様々だ。なかなか完全には応えることはできないが、何とかしてあげたいと思う。避難所に避難している皆さんも長引く避難所生活に疲れてピリピリムードが漂っているところもあった。

3/23(水)第1次支援チームレポート(女川その1)ケイシさんより

今朝は2時半に起きて、聖書を読んで被災者の方々を覚えてお祈りをする。昨晩は雪が降り、寒い夜を過ごした事と思わされる。神様、一人一人を覚えてください。今日も必要としている人に物資を届ける事ができるように。
今日は4時半出発で女川に向けて出発。出発前に3日ぶりに頭を洗ったり、髭を剃ったりする。水しか出ないのでかなり冷たく一気に目が覚める。
メンバーを乗せ、一路女川へ。しかし、先導のトーマスが道を間違え、結果的に牡鹿半島の北側から女川を目指すことになる。多摩川沿いの土手のような道にでて川下に下って行くと、所々道が陥没している。まだ湾まではしばらくあるのに、ボートが流され転覆していたり、土手を乗り越えて街側に海水が入っている。
しかし、津波の威力はこんなものではなかった。湾近くの街は完全に水没し、自販機の2/3の高さで街全体が海水に浸かったままだ。堤防が破壊されずに残っているので、海水の出口がなく完全に大きな沼のようになってしまっている。
しばらく行くと自衛隊の人に道が不安定なので気をつけて進むように言われる。その先の道は、なんと崩れていて海面とほぼ同じ高さに自衛隊が土砂を積み上げ道を作っていた。簡易の土砂の道なので轍ができていて所々車底をする音がする。
一ヶ所かなり轍が深くスタックしてしまう恐れがあったので轍を避けて右側スレスレの所を通る。万一に備えてみんなには窓を開けておいてもらい、バランス崩してバスが海中落ちたら即車外に出るように指示。緊張が走るが、何とかクリア。

2011年3月23日水曜日

3/22(火)第1次支援チームレポート(気仙沼へ)ケイシさんより

今日は、私たちのチームは単独で、2時間半かけて気仙沼に行きました。調査を兼ねて物資を運ぶためです。



被災地はこの世の世界と思えませんでした。戦後の焼け跡がまさにこうだったのかと思わされました。神様の憐れみを祈らされます。











































この現状を日曜に伝えないといけないと思わされたので、金曜の夜に奉仕を終えてから帰るようにしました。

明日は朝4時半出発で女川から雄鹿半島に入り支援物資を配ります。相手方が朝6時に電波の届くところに出てきて連絡をつける事になっています。それがうまく行かなければ会えません。そして、今夜は雪が降っています。明日はスタッドレスでないといけない所をノーマルで行きます。連絡がとれるように、運転が守られるようにお祈りください。
木曜の夜は電気、水道なしの宿泊所に移動予定です。
若者たちは本当によく仕えてくれています。

3/21(月)第1次支援チームレポート(海辺の町へ)ケイシさんより

次に仙台東部有料道路を越えて海岸方面へ向かう。この高速を越えると海まではまだ何キロもあるというのに、町の様子は一変する。
田んぼには倒れた木々や、材木、まだ引いていない海水の池、やがて車や標識、屋根や家財道具、はては家までが無残な形となり、いや、形を失い流れついていた。津波の威力というのはここまで凄まじいものなのかと改めて思う。
ふと見ると、一家団欒の時に座ったであろう座布団や、子供部屋の勉強机に置いてあったであろう宿題らしきもの、漫画本などが本来あるはずもない場所に、主を失って申し訳なさそうに転がっている。これら一つ一つの物を使っていた人のことを思うと心が締め付けられる。
その後ナビをしてくださったヨシダ先生を送り、ベースキャンプへと戻る。今日はこれで終わりという事で、みんなで夕食を食べる。
するとセイケさんからお呼びがかかり、燃料を至急、必要としている人がいるとの事で、まずは燃料を調達しに倉庫へと移動。その倉庫には500坪ほどの建物に海外から届いた支援物資が山と積まれていた。聞くところによると、アメリカのクリスチャン団体から土曜日に100㌧もの支援物資が届いたとのこと。
また私たちが着いた時、ちょうど豊田市のブラジル人から物資が届いたようで、荷下ろしを手伝う。大型トラック一杯に積まれた食料、衣類、赤ちゃん用品、水などに国を越えた支援の輪の拡がりを感じる。
その後、仙台教会と仙台聖書バプテスト教会に燃料と食料を届ける。帰ってきたのは22:30を回っていたが、充実感がある。かなり狭い道路や陥没している道なども通り緊張していたが、運転も守られて感謝。多くの人に支えられている事を覚えて眠りにつく。

3/21(月)第1次支援チームレポート(仙台到着)ケイシさんより

日本国際飢餓対策機構のセイケさんと落ち合い、必要な物資を更に積み、いよいよ避難所へと向かう。
市街地は所々ガラスが割れているお店があるが、道も信号もきちんとしていて、知らない人が走ったら被災地と気づかないかもという感じ。
しかし、所々空いているコンビニは入場制限がなされているようで長蛇の列。また、バス停も同じく長蛇の列。これも震災のせいなのだろう。
はじめに現地の牧師先生をピックアップし、ナビをしていただき、避難所となっている中学校に毛布50枚を届ける。
ちょうど早めの夕飯の時間だったらしく、入り口のところでご婦人の方が何人かで温かい豚汁を作っておられた。やはり温かなものを食べれる事が活力を生み出すなぁとしみじみ感じる。リーダーらしき人に感謝され、次に向かう。
次に行った小学校では、NHKの取材が入っている事もあり、物資は足りているとのこと、欲しいのはガソリンという事だったが、ガソリンは積んでなかったので、残念ながらそのまま避難所をあとにする。
これは中越地震の被災者にもきいた事だが、報道陣が入れて報道される避難所には比較的物資が早めに集まり易いとのこと。しかし報道陣も入れないところは、被害状況がどんなに酷くても物資がなかなか届かないとの事だった。神様、これらの物資が必要としている人の所に少しでも早く届けられますようにと祈っていた。

3/21(月)第1次支援チームレポート(道半ばで考えたこと)ケイシさんより

仙台へ向かう途上、宇都宮から先は緊急災害支援指定車輌しか通行できなくなる。矢板?ICで一度全車輌が高速を降ろされ、警察による確認。その後再び高速にのり、一路仙台へ向かう。
辺りは一般車輌が一気に減り、自衛隊やら大型トラックが多くなる。

ふとナンバーを見ると、三河、名古屋、三重、新潟、八王子、愛媛、香川、沖縄の自衛隊車輌もある。なかにはレンタカーに支援物資を積んだ車や建築会社が自社のトラックに資材と従業員らしき職人さんを乗せて数台連ねて走っている姿もあった。
 給油のためサービスエリアに止まってみると、ガソリンスタンドに並ぶ車を誘導する人、被災地に向かう人の必要としている物資を販売している人、様々な人が働いていた。
迷彩服や作業着の人ばかりのサービスエリアというのは普段なかなか見る事のできない光景だが、みんなが一つ思いでいる事がはっきりと分かった。
みんなで力を合わせてこの危機を乗り越えよう。
口に出して言う人は一人もいないが、確かにこの思いでみんなが繋がっていることを感じる。
心はすでに仙台へと飛んでいた。

3/21(月)第1次支援チームレポート(出発にあたって)ケイシさんより

栄警察で緊急災害支援指定車輌の認定を受けていよいよ出発。警察の人たちに、気をつけて行ってきてください、よろしくお願いします。との言葉で送りだされ、少々の緊張と身の引き締まる思いをしながら、いざ仙台へ向かう。

黒磯PAまでは、1人での運転は大変だろうと、エディスさんが運転を買って出てくださる。感謝。
多くの人の想いと物資を積んで、たくさんのひとの協力に支えられている事を改めて思う。人は1人では何もする事はできない。

突然に家や家族、財産を失った方々のもとへ早く確実にこれらの物資を届けなくては。
(緊急災害支援車両の認定証)

2011年3月21日月曜日

毛布の調達

マイクロバスに200枚の毛布を積み込み、仙台市若林区の避難所になっている八軒中学校や、海方面に届けました。悲惨な状況に言葉を失います。
(海辺の町の様子)